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保永堂版の沼津でも解るように、江戸時代の東海道は狩野川と殆ど同じレベルだったようです。それは、この辺りがもともと駿河湾であった処に木瀬川から運ばれた砂礫や駿河湾の潮流で運ばれて来た富士川由来の砂によってできた洲であったからです。
しかしその後の新田開発や宅地化、さらに狩野川台風後の護岸工事そして新道建設や田畑の埋め立てなど、様々な工事が行われています。
その結果、今ではこの場所は沼津城の本丸跡とほとんど同じレベルになっているのです。
埋め立てられて地盤が上昇している事が「富士隠れ」が無くなってしまった原因だと考えられます。 |
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歌川広重画 東海道五十三次 行書版
沼津・名物鰹節を製す |
広重の行書版が描かれたのはどこ
広重の行書版は沼津宿西部の様子と言われていますが、愛鷹山の向こうに見えるはずの富士山が描かれておりません。沼津市東部の二ッ谷周辺から三枚橋にかけての一帯には「富士隠れ」と言って富士山が愛鷹山の陰になって見えない場所があったようです。この絵は「富士隠れ」で描かれた可能性があるのです。
実はこの時代、沼津城の北側(現在の沼津駅から北側)は沼地だったようなのです。つまり保永堂版 沼津・黄昏時を描いた場所で、ちょっと右を向くと行書版の風景になっていたと考えられるのです。 |
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ここで、改めて沼津の浮世絵を見てみると、富士山を描いているのは木瀬川橋周辺で描かれた「東海道名所図会」と海上から俯瞰的に描かれた「双筆五十三次」の二つで、それ以外は全て沼津宿西部で描いたものなのです。つまり、富士山が見える場所で富士山を描いているのですが、富士山の見えない場所で描いた(?)「行書版」では富士山を描いていない可能性があるのです。
その他、富士山が描かれていない絵は、「保永堂版」を含め、みな富士山と異なる方向を描いているのです。
ところで沼津城は、武田勝頼が北条氏に対処して築城したそうですが、狩野川と浮島沼に囲まれていて平城とはいえ難攻不落の城であったそうです。江戸時代の古地図を見ても、沼津城の周囲は田圃で囲まれています。
富士市から沼津市にかけて広がる浮島沼の新田開発は江戸時代から行われていましたが、困難を極めたそうです。第二次大戦中に最後の放水路が完成するまでは、田植えのときに肩まで沈んでしまったとの話も聞きます。
東間門の放水路は沼津駅北口周辺の溜まり水を抜くために造られたとのことです。三枚橋手前の平町(宿場の入り口で、見付があったそうだ)辺りからの眺めは、沼津城を左にカットすると行書版の風景そのものだったと考えられます。
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