◆ 傍示石 ◆

潮音寺のすぐ先の駐車場に、従是西沼津領と書かれた傍示石が建っている。
江戸時代、水野出羽守忠友が城主であった頃の沼津領の東端を示している。水野出羽守は安永6年(1777)に沼津藩主になっている。この時代、伊豆は天領で、韮山に代官屋敷跡である江川邸が残っている。この江川代官が治める天領と沼津領の境界だったそうだ(水野出羽守忠友は、10代将軍徳川家治の命により、代官江川太郎左衛門英征支配の天領の一部を引き継いでいる)。東海道五十三次之内 藤川・棒鼻ノ図にもあるように、この傍示石も初めは木製の傍示杭だったそうで、幕末になって作り変えられたという。傍示石は3面に同じ文字が刻まれており、沼津領に入ってくる人が見えるように建っていたそうだ。つまり、文字のない面を西側の領内に向けていたのだ。元文5年(1740)の「村明細帳」では、当院所在の久保には29軒の農家があったという。当院はまさに沼津領の端っこだったのである。
沼津市西間門にも、従是東(沼津領)と書かれた傍示石がある。2つの傍示石の間が当時の沼津領という事だが、5万石といってもずいぶん狭かったようである(水野出羽守忠友がこの時拝領したのは2万石で、沼津地区は1万4千石分程度)。