東海道53次
沼津宿

  三島宿から


黄瀬川を越えて
傍示杭(石)  
牧堰用水


黒瀬の渡し
伊賀越え道中双六・沼津の段


沼津宿から
沼津宿境と沼津藩領境


浮島沼へ
浮島沼の成り立ち


原宿にて
伊豆半島の成り立ち
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東海道の様子
庶民の旅


東海道の浮世絵
沼津の浮世絵
保永堂版の後版  
 
 
 
 









 東海道53次 沼津宿 浮世絵  歌川広重  傍示杭(石)
 

浮世絵でみる東海道の古今 沼津宿           
 

今年は東海道53次400年だそうで、各地で様々な記念行事が行われている。
そこで今回、このコーヒーブレイクでも浮世絵を中心に沼津を取り上げてみたい。

東海道53次の浮世絵と言うと、誰しも歌川広重の連作を思い出すことだろう。広重は天保三年(1832)36歳のときに幕府より朝廷への御馬献上の一行に、絵師として儀式図を描く役目で加わっていたと言う。このとき書いたスケッチなどをもとに描いた保永堂版 東海道五十三次之内シリーズが翌年より刊行され、爆発的な売れ行きを示したとの事。一躍有名になった広重は、以来20作余りの東海道53次シリーズを描いているのだそうだ。
それでは広重作品のいくつかと、現在の沼津の様子を対比しながら眺めてみよう。

  



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黄瀬川を越えて
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    ↓
歌川広重作 五十三次名所図会 沼津

沼津には珍しい雪景色。スッポリと雪に包まれて、静まりかえっている様子が美しい。中央右に大木、橋のたもとに建つ民家。沼の広がりの向こうにそびえる雪の愛鷹山と富士。静けさの中を旅人のみが注意深く橋を渡っていく・・・。
すばらしい、惚れ惚れとする作品である。

描かれた場所は沼津市の東端、黄瀬川のほとり。当院のすぐ近くである。
沼津は北に愛鷹山、南は駿河湾沿いに延びる松原で、その間は極めて水はけの悪い沼地が広がっていた。ほんの少しの雨でも水があふれかえり、水田にならなかったと言う。しかし、黄瀬川西岸は愛鷹山の裾野にあたり、なだらかな南斜面を形成して、中世より金岡荘、大岡荘として耕されていた。広重の五十三次名所図会では沼として描かれているが、この辺り実際は畑であった。沼地の多い沼津を紹介するのに、広重流に構図を意識して描くとこのようになったのであろうか。

 
 ◆ 現在の様子 ◆


黄瀬川橋から愛鷹山と富士を望む。現在はコンクリート製のこの橋も、昭和33年頃までは板橋(「古写真で見る街道と宿場町」より)であったという。このあたりは地盤が低く、黄瀬川もかなり蛇行していたらしい。川の手前に東海道53次を偲ばせる松並木が残っており、その一角に智方神社がある。

<平成13年9月23日撮影>
 初冠雪の直後久しぶりに、本当ーに久しぶりに富士が鮮やかに姿を現した。


木瀬川地区は中世以来宿駅として栄えており、鎌倉時代には足柄路と箱根路の分岐点であったそうだ。この時代の木瀬川地区というのは、現在の沼津市大岡木瀬川地区だけでなく、清水町の長沢、八幡、伏見などを含む広い範囲で、立場がおかれていたらしい。立場というのは宿と宿の間にあって旅人が休める茶屋などがあり、人足や駕籠なども休んだという。

源頼朝と弟の義経が再会した時に腰掛けたとされる対面石は、現清水町の八幡神社境内にある。治承4年(1180)、平家の軍勢が富士川のほとりまで押し寄せてきたとき鎌倉にあった頼朝はこの地に出陣した(富士川の戦い)。奥州からかけつけた弟の義経と対面し、源氏再興について語り合い、懐旧の涙にくれたといわれている。

対面石 中世における沼津の中心部は木瀬川宿や車返宿(今の三枚橋付近)にあったそうで、江戸時代とは少し違っていたようだ。中世に黄瀬川橋は架かっておらず、慶安2年(1649)頃に沼津代官支配下に架けられたようである。東海道53次の本道が箱根を通るようになったのは、元和2年(1616)からで、中世までの東海道は木瀬川宿を北上し、足柄越えをしていたのだそうだ。

 
    頼朝と義経の対面シーン(東海道名所図絵)

 ◆ 松並木 ◆

 江戸時代、街道沿いには参勤交代の便を計るために松が植えられたようで、東海道53次の松並木は有名。この辺りでは三島の松並木はきれいである。街道の両側に松が植えられていると、旅人も道に迷うことがなく、夏には涼を、冬場には風を防ぐ役目もしたと言う。





◆ サイン・案内板 ◆

東海道沿いの史跡の前に立っている案内板。
これは清水町長沢にある松並木の前に設置されているサインだ。
 ◆ 智方神社 ◆

  建武2年(1335)、足利尊氏により鎌倉に幽閉されていた後醍醐天皇の皇子である大塔宮護良親王(だいとうのみやもりよししんのう)は、北条氏の生き残りである北条時行が鎌倉を攻めたときに尊氏の弟である直義の命により部下の淵野辺義博に暗殺された。
宮の侍女である宮入南の方(藤原保藤の女)は御首を柩に収め、ご他界の状況を中央(南朝)に報告するため追っ手を避け足柄街道を当地まで来たが、黄瀬川が増水しており渡るのが困難であったため、止むなく小祠の辺りに、宮の御首級を葬り楠を植えて墓印としたという。北条時行がこれを神社として現在にいたっているとの事。境内には大きな楠があり、湧き水が多量に流れている。居合わせた人に聞いたところ、近くで井戸を掘ったら出たという。冷たくてとても気持ちがいい。




智方神社


大楠


大塔宮護良親王の墓


黄瀬川を過ぎてしばらくして、左に細い道を入ると木瀬川八幡神社がある。日枝神社の末社であろうか、平成13年9月23日に行われた日枝神社の例大祭にあわせ神興渡御(奉納行列?)がおごそかに行われた。100年毎に行われる行事だと言う。慶長九年奉納神槍、享保八年奉納宮神輿、奉納錦神旗などの触れ書きが見える。


       
         
      東海道足柄路・分岐点
木瀬川八幡神社を過ぎるとすぐ、右側に細い道がある。潮音寺のすぐ手前、光来堂の前である。この細い道は中世までの東海道足柄路と思われる。
東海道53次は箱根越えが本道になる前、木瀬川宿から足柄路を通っていた。このあたりで足柄路は黄瀬川の両岸を北上していたそうなのだ。その頃の木瀬川宿は黄瀬川の両岸にかけて広がっていたのだそうで、この細い道は辿って見ると確かに黄瀬川沿いを鮎壷の滝から更に北上している。道沿いには古い民家や寺社が多い。このまま行けば御殿場まで続いているのだ。


         
       
             大岡村鳥瞰全図  
     沼津市史の別編 絵図集に大正14年製の大岡村地図が載っている。そこに黄瀬川に沿って北上する一本の道筋を見る事が出来る。
また、黄瀬川上流から引かれた牧堰・門池用水が大岡全体を潤していることがよく分かる。
 


足柄路のすぐ先右側に亀鶴姫の碑がある臨済宗・潮音寺がある。 この寺は駿河一国三十三番札所、駿豆横道十一番札所にあたり、本尊は亀鶴観音という。
亀鶴姫は駿河の国大岡荘木瀬川村の長者、小野善司左衛門の一人娘として生まれ、世に聞こえた美女であった。この亀鶴姫は曽我兄弟が工藤祐経の寝所に討ち入ったとき添い寝をしていたという。建久4年(1193)、富士の巻狩の折、その美麗を伝え聞いた源頼朝が強く召されたが応ぜず、18歳の春黄瀬川の上流鮎壷の滝に身を沈めたという。姫は亀鶴観世音菩薩として潮音寺に奉られており、諸病全快の菩薩と言い伝えられている。

潮音寺の門前に光来堂という御菓子司があり、銘菓亀鶴姫まんじゅうを製している。小生も食したが、まこと美味である。余談ながらこの御菓子司では、対面石最中も販売している。中に小さな餅の入った、つぶしあん最中なのだが、これがまたすこぶるうまい。是非ご賞味されたい。


潮音寺

亀鶴姫の碑
    曽我兄弟(東海道名所図絵)


対面石最中

亀鶴姫(栗まんじゅう)

 ◆傍示石◆

潮音寺のすぐ先の駐車場に、従是西沼津領と書かれた傍示石が建っている。
ここは現在、沼津市大岡字下石田と字木瀬川の境界だが、江戸時代には水野出羽守忠友が城主であった頃の沼津領東端を示している。水野出羽守は安永6年(1777)に沼津藩主になっている。この時代、伊豆は天領で、韮山に代官屋敷跡である江川邸が残っている。この江川代官が治める天領と沼津領の境界だったそうだ(水野出羽守忠友は、10代将軍徳川家治の命により、代官江川太郎左衛門英征支配の天領の一部を引き継いでいる)。広重の浮世絵にもあるように、この傍示石も初めは木製の傍示杭だったそうで、幕末になって作り変えられたという。江戸時代の古地図にも石柱として描かれている。
傍示石は3面に同じ文字が刻まれており、沼津領に入ってくる人が見えるように建っていたそうだ。つまり、文字のない面を西側の領内に向けていたのだ。元文5年(1740)の「村明細帳」では、当院所在の久保には29軒の農家があったという。当院はまさに沼津領の端っこだったのである。
沼津市西間門にも、従是東(沼津領)と書かれた傍示石がある。2つの傍示石の間が当時の沼津領という事だが、5万石といってもずいぶん狭かったようである(水野出羽守忠友がこの時拝領したのは2万石で、沼津地区は1万4千石分程度)。

ところで、黒瀬橋のたもとにある平作地蔵と関係のある、日本三大敵討の一つ伊賀越道中双六・沼津ノ段で平作と十兵衛が最初に出会ったのは棒鼻(傍示石「従是西沼津領」の前)なのだそうだ。

 


 

 ◆ 東海道の新しい道標 ◆


傍示石のすぐ先で、国道1号線の旧道と新道が合流している。この合流点に東海道であることを示す道標が立っており、久保川が交差している。久保川は、以前ここを黄瀬川が通っていた所で、大雨が降るとしばしば黄瀬川の本瀬になってしまったと言う。確かにこの辺りだけくぼんでいる。江戸時代、久保川の下流(狩野川
の合流地点)には水車があり、米麦を搗いていたそうだ。

 

  



ふたつの道祖神


合流点の右側にサイの神(道祖神)がある。このサイの神は道しるべであると共に、火からの守り神とされいるそうだ。
ところで、黒瀬場橋のたもとにある平作地蔵と関係のある伊賀越え道中双六・沼津ノ段で、呉服屋十兵衛が平作の娘お米に一目ぼれしたのは、この道祖神の前だったようだ。

下石田通りの青木さん宅の前に、もうひとつ道祖神がある。道しるべであると共に、村に災厄の入るのを防ぐ守り神でもあるという(沼津むかしばなし)。どちらの道祖神も何時もきれいに掃除されており、供物や花が手向けられている。周りの人達の暖かい気持ちが嬉しい。

道祖神の角から北上する道は「みくりや道」と呼ばれていたが、南側の東海道まで通じたのは明治17年頃だそうだ。その下石田の信号辺りに高札場があったらしい。当時、キリシタン禁止の高札、火付け禁止の高札、博打禁止の高札が掲げられていたと言う。


 

下石田の名主、青木伴右衛門は、当時の下石田近隣の様子や出来事を克明に記録に残しており、その末裔にあたる青木栄実さんは、その書付をもとに「伴右衛門 沼津むかし話」を出版している。



青木伴右衛門の書付
 
青木栄実氏蔵

  


   沼津むかしばなし
 

<牧堰用水>

東海道を少し行ったところに新田川がある。とても小さな川で見逃してしまいそうだが、実はこれは用水路である。当時、大岡の荘には水がなく、平坦な畑であった。貧しい農民はなんとか米のとれる豊かな村にしたいと、慶長7年(1602)に小林村、上石田・中石田・下石田村、木瀬川村、日吉村、沼津村が協力して黄瀬川の鮎壷上流に牧堰をつくり、そこから水路を掘削したと言う(牧堰用水)
沼津市明治史料館発行の「牧堰・門池用水」によると、築堰を命じたのは関ヶ原の合戦の後に三枚橋城主になった大久保忠佐(兄は小田原城主:大久保忠世、弟は天下のご意見番:大久保彦左衛門)であったそうだ。


下石田村を流れる部分は新田川と呼ばれ、東海道往還を横断するところには石橋を架け、新田橋と名付けられた。その後、浪人川など用水路は網目状に広がり、大岡の荘だけでなく沼津村、東間門村まで潤すようになると灌漑用水が不足し、正保2年(1645)牧堰の改良工事と門池を拡張して溜池とし、そこから水路を設置している((門池・牧堰用水)。大岡の荘一帯では飛躍的に米の収穫が増え、流域の人々に大きな恵みをもたらせた重要な水路であったと言う。現在も、毎年春が来ると、この水路を利用して稲作が行われている。

 


新田川

 

新田川を上流まで追ってみると、盛んに枝分かれした堀が縦横に張りめぐらされており、その源は門池と牧堰であることがわかる。門池からは灌漑用水路以外に、その後に作られた放水路があり、これを牧堰からの用水路が樋で越えている。




その少し上流に石碑が立っており、「安政元年(1854)十一月四日、駿河地方に大地震が起きた。このとき、ここ駿東郡大岡村南小林の約二ヘクタールほどの土地が一瞬のうちに、約六メートル陥没し、住家九戸がすべて埋没してしまった。」とある。


地震の石碑
水路に沿って、さらに上流に行くと牧堰が見える。この写真の手前に水門があり、水は用水路へと流れている。

牧堰と鮎壷の滝の間に牧堰橋が架かっている。橋を渡って右折すると,新井堰(本宿用水の堰)がある。鮎壷の滝の直上から取水して黄瀬川東側を灌漑したという本宿用水は素掘りの遂道で、慶長8年(1603)に掘削されている。

この時代には、新田開発が盛んに行われていた事が分かる。

とりわけ寛文6年(1666)に大庭源之丞が箱根芦ノ湖の水を裾野市に引いた深良用水は有名。




牧堰


門池から根方街道を西に進んでグルメ街道を越えると光長寺がある。日蓮宗の大本山で日蓮の直弟子日法聖人が日春聖人と共に日蓮の教えによって建治二年(1276)に開山したとのこと。ずいぶんと大きな寺だ。仁王門には金剛力士像が収められており、立派な梵鐘もある。建立されてから700年以上経過しているらしい。仁王門をくぐると左手に南の坊、西の坊、山本坊が、右手には辻の坊、東の坊があり、本殿手前の右には客殿が建っている。これ程大きなお寺は、沼津には他にないだろう。辻の坊の門は沼津城の中庭の門を移設したものらしい。



光長寺仁王門


辻の坊の門

      

 
 
         

  大岡歴史マップ

東海道に戻ると歩道に沼津市大岡歴史マップが立っており、江戸時代の下石田村の様子が紹介されている。



       黒瀬の渡