東海道五十三次
沼津宿


  ・ 黄瀬川を越えて
  ・
黒瀬の渡し
伊賀越え道中双六・沼津の段
  ・ 沼津宿から
  ・ 浮島沼へ
  ・ 原宿にて
  ・ 沼津城とその周辺
  ・ 沼津の史跡と年表
  ・ 街道の様子
  ・ 庶民の旅
  ・ 東海道の浮世絵
  絵草子ほか
  ・ 小道具
 
   
   
   








東海道53次 沼津宿 浮世絵 歌川広重 

 
    黄瀬川の砂
 
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〜黒瀬の渡し〜
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歌川広重作 東海道五拾三次之内 沼津・黄昏図(保永堂版)
 黄昏時に狩野川沿いの東海道を急ぐ巡礼の親子と金毘羅参りの行者。四国の金毘羅大権現には白装束に天狗の面を背負って参ると霊験あらたかなるとのこと。
遠くには三枚橋と沼津宿が見え、西の空には満月が上がり土蔵の白壁がくっきりと照らされている。東海道五拾三次之内のうち、ただひとつ月の沼津として有名であり、広重の代表的傑作として高く評価されている作品である。

西の空に満月が上がるのは不自然だが、これも広重の構図を意識した作品で、描かれた場所は現在の大岡、当院から程近い街道沿いと思われる。この時代、狩野川に橋は架かっておらず、我入道の渡船は最近再現されたが、黒瀬にも明治時代まで渡しがあったそうだ。
狩野川はその川底の色あいの違いから、上流より黄瀬、白滝、黒瀬、青瀬(黒瀬橋と三園橋の間)、赤瀬(永代橋下流)と呼ばれ、五色川とも言われた美しい川だったそうだ。


  ◆ 現在の様子 ◆

黒瀬橋が架かっているこのあたりが描かれた場所であろうか(黒瀬橋より撮影)。狩野川沿いにわずかに旧東海道が残っている。かつて旅人は狩野川を見ながら歩いていた訳だが、いまでは高い堤防が視界を遮っている。昭和33年9月26日に多くの死者を出した狩野川台風の後に作られた物だ。

旧東海道沿い、黒瀬橋のたもとに平作地蔵がある。『伊賀超道中双六 沼津の段』という浄瑠璃で有名な、荒木又衛門が助太刀をして36人切りをした仇討ちで、仇の河合又五郎の行方を自分の命をかけて我が子十兵衛から聞き出した平作を祀った地蔵とのことだ。平作が茶屋を営んでいたという場所に建っており、現在は延命子育地蔵として信仰を集めている。



平作地蔵
    

伊賀越え道中双六を題材にした浮世絵。平作とその息子呉服屋十兵衛、娘お米を描いている。
荷物を担がせた老人平作が、実は我が父である事を知った十兵衛は、河合又五郎の印籠を残して立ち去った。印籠が敵又五郎の物だと知った平作は急ぎ十兵衛を追って千本松原へ。平作は又五郎の行方を聞くが、義理堅い十兵衛は喋らなかった。思い余った平作は十兵衛の脇差を抜き、自分の腹に刺して冥土の土産に聞かせてくれと頼んだ。さすが十兵衛も心を決め、又五郎の行く先を大きな声で、陰に隠れているお米にも聞こえるように教えた。
この後、平作は我が子
十兵衛の腕の中で息を引き取る。 これが伊賀越え道中双六沼津の段なのだそうだ。
国芳の絵は、十兵衛が平作に荷物を持たせたところ。三代豊国の絵は、千本浜で追いついた平作が十兵衛に又五郎の行く先を聞いているところを描いているのだろうか。
    国芳画 東海道五十三対沼津
 三代豊国画 御上洛東海道沼津
平作地蔵の先に一里塚がある。江戸からちょうど30番目にあたるのだそうだ。
一里塚というのは慶長9年(1604)に幕府が江戸日本橋を基点として、街道沿いに一里ずつ置いた旅人用の道しるべだそうで、道路の両側に塚を築き、並木の松と区別する為に榎が植えられる事が多かったという。ここにも元々大きな榎が植えられていたそうだが、枯れたため現在植えられているのは再植樹された榎だそうだ。反対側の塚は堤防際にあったらしいが今はなくなっている。   

 一里塚の隣に玉砥石がある。古墳時代に玉を磨くのに使ったそうだ。石の表面には削り跡の溝が数本残っている。古墳時代、香貫地区に玉造郷があったらしく、そこで使われていた物らしい。対岸の黒瀬町に玉造神社が建っている。




 一里塚


玉砥石


玉砥石の北側に日枝神社がある。元々は旧東海道に接していたそうだが、参道に玉砥石や一里塚が設置されて、現在は人が通れるほどの細い道路のみが残っている。境内には芭蕉の句碑がある。平安時代、沼津は藤原氏の荘園であったらしい。そのころ、出雲の神様を移して祭ったそうで(主祭神は大山咋神で治水、産業、酒造の神)、文化財が多く残っている。山王霊験記は滋賀県の日吉大神の勧請による平町日枝神社創建の縁起絵巻で重要文化財。




        
日枝神社 


芭蕉の句碑


 


山王 日枝神社史



山王霊験記(平町日枝神社 所蔵)















富士巻狩大釜
ちょっと変わった物に、富士巻狩大釜がある。
源頼朝は、建久三年七月に征夷大将軍に任ぜられている。翌建久四年五月、一大デモンストレーションを兼ね、十二万の軍勢を提げて富士巻狩を挙行した。この時の大部隊を賄った大釜が破損してしまっているが半分だけ日枝神社に残っている。


富士の巻狩(東海道名所図絵)


 
       富士裾野牧狩之図
            豊国画


 平安時代から鎌倉時代にかけて、沼津周辺は、大岡荘、金岡荘、阿野荘、三津荘などの荘園になっていた。大岡荘の荘官であった牧氏は武士となり、牧宗親は源平両氏に仕えた。宗親の娘、牧の方は北条時政の夫人となったが、鎌倉幕府の内部抗争に破れて滅亡した。阿野荘を治めていた阿野全成(義経の兄)も同様に北条に敗れている。
南北朝時代から室町時代にかけて、沼津郷(現在の沼津市中心部)は足利氏に仕えていた曽我氏が治めていた。中世における沼津の中心部は木瀬川宿や車返宿(現在の三枚橋町付近)であった。
東海道を左折して、黒瀬橋を渡ったところ香貫山のふもとに玉造神社がある。由緒によると、延喜式内玉作水神社で、昔玉作郷に住んでいた玉作部氏族の祖神玉祖命と水神水波延女命が御祭神だそうで、千年以上経た古社とのこと。
 玉造郷は千年以上昔、平安朝初期に伊豆と駿河の国境として狩野川の辺り香貫山麓一帯を指し、玉造部氏族が住んでいた集落跡と言われている。玉作部は朝廷に献納する丸玉や服飾用の勾玉、管玉等を造る職業的部民で、古代において祭祀用には欠くことのできない重要な役割を持った氏族であったとのことである。(神社内に建っている由緒には、玉造と玉作の両方の字が使われており、どちらが正しいのか定かではない。)



玉造神社

黒瀬橋のすぐ川上に内膳堀の取水口がある。内膳堀とは寛永13年(1636)に作られた用水路で、香貫地区を灌漑するため植田内膳がその掘削に尽力した。
沼津市歴史民俗資料館に所蔵されている、文政11年(1837)に書かれた、駿州駿河之郡上香貫村絵図に二筋の内膳堀が水門付きできれいに描かれている。東側の一本は、黒瀬橋を渡り直進する道路(内膳堀通り)と平行してあるようなのだが、見つからなかった。西側の堀は綺麗に整備されており、市民文化センターの脇を流れている。
内膳堀の取水口付近から対岸を見ると、大岡地区を還流した牧堰用水の排水口がある。狩野川からの逆流を防止するための水門も見える。狩野川の北岸は南岸の地区よりかなり高い事がわかる。内膳堀を作った方々のご苦労もさることながら、下石田を灌漑した先人たちの努力と、その偉大さを改めて痛感する。



内膳堀
内膳堀通りを少し進むと、左側の香貫山直下に霊山寺がある。曹洞宗永平寺派の寺で、建立年代は不明だが石塔に刻まれた年号には鎌倉時代のものもある。墓地には、空、風、火、水、地を表わす五輪塔や植田内膳の墓がある。梵鐘には天下泰平、国家安穏、仏法隆盛、無病息災、大願成就、福徳円満などを願って鋳造されたが、他所から移された物らしい。
駿州駿河之郡上香貫村絵図の中央左には、霊山寺が一段と大きく描かれており、そこから真っ直ぐ西と南北に道路が伸びている。狩野川にぶつかった所に、それぞれ市場渡、黒瀬渡と高札場があったようだ。



               
         駿州駿河之郡上香貫村絵図 沼津市史 絵図集 No.32
 



霊山寺




 香貫山は伊豆連山の北端に位置する小山で、海抜193メートル。知る人ぞ知る沼津アルプスのスタート地点だ。眼下には沼津市街と駿河湾に注ぐ狩野川が一望に出来、春には桜の名所として市民に親しまれている。中腹の香陵台には、沼津市慰霊平和塔として五重塔が建っており、市民の早朝ハイキングコースにもなっている。



五重塔
 この五重塔は日清、日露、第一次、第二次世界大戦における沼津市出身の戦没者および戦死者を祀り、併せて世界恒久平和を祈念して慰霊平和塔として建てられた。


珍しいことに、この暖かい沼津でも昨年紅葉がみられた。写真にその時の香貫山を紹介する。まるで上高地にでもいるかのような錯覚を覚える程の美しさで、沼津に越して10年、ちょっと得をしたような気分がした。

 驚いたことに、今年も紅葉が見られた。
 小雨交じりの日に狩野川黒瀬橋越しに慰霊塔付近を撮影。
一里塚や玉砥石の先に沼津宿の入り口である平町見付跡があるらしいのだが、探しても見つからなかった。(どなたかご存知の方がいらっしゃいましたら教えてください。 



   
稲荷神社と三枚橋の石



現在の三枚橋



鉄砲町の石標

これより三枚橋を経て大手町に至る。   
三枚橋というのは、現在の三園橋際に流れる貉川に架かる橋で、注意していないと通り過ぎてしまう。元々は石が3枚架かっていたところからついた名前だという。今もその1枚が稲荷神社に残っている。その稲荷神社を探していたら、旧鉄砲町という石標があった。この辺りで鉄砲を作っていたのだろうか。説明文によると、この辺りは城の北東の端にあたり、鉄砲の操練場があったのだそうだ。まわりは田んぼで、後に(明治以後?)民家が建つようになって、鉄砲町と呼ぶようになったらしい。

旧東海道は大手町の本通りを左折して細い通りに入る。川廓通りである。この右手が本丸跡の碑がある中央公園である。

★ お願い ★
  この東海道沼津宿は不備な点が多々あるかと思います。
 お気付きの点がございましたら、ご指導頂きますようお願いいたします。   

黄瀬川を越えて 沼津宿から